絞殺

「結婚式で大嫌いなフラッシュモブをされ離婚を決意」…新婦の投稿が話題に
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1884612.html

283: 名無しさん@1周年 2016/06/03(金) 12:16:06.96 ID:oqYzp9BsO
フラッシュモブが好きな人とはこういうタイプ

・Jリーグはよく知らないが日本代表の試合は顔にペイントしてスポーツバーで盛り上がる
・本来どういうお祭りなのかよく知らないがハロウィンで張り切って仮装する
・映画の試写会終わりで取材班に要求されるがまま好意的なコメントをし
「○○サイコー!」と映画を褒め称える

以前にも絞殺した気もするがまあよし

企画を行う時に知恵の足りん奴が陥り易い要素が2つあって
すなわち「対象の不在」と「対象の誤解」であるね
現場では両者が複雑に絡み合っていたりするのだが
その根本原因はひとつだけである

「対象の不在」とはそこに相手の存在がないということだね
自分がやりたいことをやりたいようにやると
これを企画であると考えてしまう
そいつがやりたいようにやって出来上がったものがイチさん並の質であれば
受け手もそれなりに受け入れるかもしれないが
凡人にとってそれはなかなか難しい訳である

「これ面白くね?面白くね?」て
内輪での飲み会で盛り上がったものをそのまま一般人にお出ししたって
傍から見ればそんなものは自慰ショーですわな
凡が凡の頭で考えた凡なことを凡風に発現させたものの結果は大概凡ですよ
そこに気付かないんだ
自分達のコミュニティで受けたものは世間一般も受け入れてくれると考えるんだ
皆が自分と同じ価値観を持っていると考えてしまう可哀想な状態

そら「なぜ?」がなけりゃゴールの姿は自分中心に考えるしかない訳で
それをやった結果「自分が」楽しいと結ぶしかないわね
自慰行為を皆に見せつけるという意味ではオナクラもびっくりである

自分がやることそのものが面白いというようなことであれば
ユーチューバーとしてなのかニコ生主としてなのか知らんが
それはそういった空間で発揮して頂いて
そこに興味のある人間だけ賛同する人間だけ
近寄って来れるようにした方がその他一般の人間にとっては
お互いの為に幸せであるなと

一方で対象の存在を匂わせている場合もある
それなのにそこがうまく機能していない
これがつまり「対象の誤解」である

今回の例を出すまでもなく
生きていく中では至る所に「サプライズ」を発現させられる機会はあるわね
問題はそれを相手がどう感じるかということよ

例えばこのフラッシュモブをYurieに対して行えば割と喜ぶかもしれない
動画を撮って直ぐにインスタにあげてイイね的なものを貰って大興奮かもしれないね
じゃTMちゃんに同じアプローチだったらどうだろうかと
ドン引きで終了となる気がしてならない訳である

つまり企画には対象が必要だとするのならば
その対象がどう思うかというところが重要になってくる訳だから
そこに対して失敗する可能性を除いていかなければならない
可能性の処理が必要になってくる訳だね
この過程は実に俯瞰視点であって
つまり主観のみで進めていくとこれは容易く自慰ショーに転げる可能性があると
だもんで相手の立場に回って
或いは第三者的視点に立って
対象が転びそうな石を丁寧に取っていかないといかん訳である

口先で「場を盛り上げる」とか「誰かを喜ばせる」なんていって
可能性の処理が伴わない試みが実に多い訳である
これは結局自分の欲望を満たしたいということが先立ってしまっていて
或いは自分の価値観でのみ主観でのみ企画を捉えてしまっているということで
やはりそれは自慰ショーの域を出ないわね

これは一見難しいが実は簡単であって
例えば疲労炎で歌を歌うという定番の催しがあるわね
参加者の中には歌が嫌いな人間がいるかもしれない
「可能性の処理」を表面上でしか理解できていないと
「嫌いな人がいるのなら歌わない方が良いのではないか」なんてなる
勿論そうではないわね
ゴールが新郎新婦を喜ばせるということであれば
つまり企画の対象を新郎新婦に置いているのだとすれば
また歌うことによって新郎新婦が喜ぶということが認識できているのであれば
歌を歌うという企画はその目的と手段において妥当であるといえるわね

企画を行うということは相手の事を考えるということであって
対象の好きなもの嫌いなものについて思いを巡らすということであって
彼等彼女等が喜ぶゴールの姿を描いて
そのゴールの為にどんな手が打てるかを考えて取り組む訳だから
そんでその結果相手からの「楽しかったよありがとう」が
自身に跳ね返ってきて「あなたが楽しい私も嬉しい」と
こういう構造であると考える訳である

だから企画には対象が必要であって
企画を終えたときに対象がどうなっているかというゴールの設定が必要であって
そうすると今回のフラッシュモブは目的を達成するために沢山ある手の中の一つであって
それが効果がある場面もあればそうではない場合もあると
だから対象に思いを巡らせてそれを取捨選択することが重要なのであると

もしフラッシュモブへの欲望が先立っているのなら
つまりこれを行うこと自体が目的となっているのなら
それはやはりユーチューブやニコ生で行って
そこに価値を持つ人間だけのコミュニティで評価してもらった方が宜しいと思うね

頑固ラーメン屋があって
「この味が分からん奴は店に来ていただかなくて結構!」となっていると
これは自分自身の信念に基づき自分の考える「旨いラーメン」を提供しているといえるね
ただし評価は他人がするもので
それが繁盛店となるか半年で閉店となるかそれは分からない
まあ自身の価値に基づいて行動してそこに客がついてくるのならいいのではないかと
「対象の不在」があっても成り立つ時もあるし成り立たない時もあるわね
でも自己完結する環境の中での取り組みなのなら
それはどうぞご自由にということで
その思想が皆には受け入れられず店が潰れたってそれは自己責任論の世界である

宴会があって
その中の数人の固まりで下衆の極み乙女会を行っている
内容が下衆杉ちゃってそこに入れない人間も出てくる
でも他にバス話の固まりもあれば子会社話の固まりもある玉入れ話の固まりもあるかも
自分がその価値によってその固まりを選択することができるとすれば
これはそれぞれの固まりにとって幸せな時が流れるわね
「対象の誤解」が存在しても
ある価値からはみ出してしまう人間にとって別の価値も存在していれば
そいつが別にあるいずれかの固まりに入ることができれば企画としては成り立つわね

だからもうただの動物園デートに
雨の予測とか風の予測とかお昼の予測とか動物の予測とか
まあとにかく色々な事を想定してみるのが企画であって
そんでもって傘やら合羽やらお弁当やら動物図鑑やら
沢山のものを準備してみるのが企画であって
そんでそれは「何のため?」って
それはもちろん「彼女の笑顔のためですよ」と
こういう構造であるしこうありたいと考える訳だね

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