冨田真由
冨田真由
冨田真由
刺傷事件について
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1885034.html

これ世論はどうなっとるのだろうね
警察の対応を批判しとるのか
法規制を強めた方がいいというのか
まあよく分からんのであるが

アイドルというものの質の観点と
ファンの質という観点で考えてみたいのだが

90年代のプロレスて全日と新日がメジャーであって
それ以外はインディーとされていた訳よね
つまりメジャーなブランドがあって
それ以外は言うなりゃアマチュアプロレスラーよね
アマでプロとか意味不明だけれどもまあよし
ところがメジャー団体が分裂して力が落ち込んだり
地方の団体が勢いを増して力を持ったりして
今はメジャーと呼べるのは新日だけで
これ以外はその他大勢のプロレス団体的な括りになっている
そうするとね
レスラーも昔は新日全日に所属していないと
「自分はプロレスラーです」といっても認められないというか低く見られるというか
そういう空気があった訳だが
今は「自分プロレスラーです」といえばプロレスラーですよ
なんだかアイドル業界と重なるものがあってだね

AKBなんかもそうだけど
「今すぐ会えるアイドル」というかそういう風に
アイドルの敷居というのが下がった部分があると思うんだよね
なんだかアイドルというものが身近になったと
そうすると地下アイドルとか地方アイドルとかまあ至る所でアイドル祭りだわね

会社の新卒も「アイドルになります」て会社を辞めていった訳で
彼女は割と有名な大学卒で設計系の部門に入っていたのだが
それを振り切るような魅力があったのだろうね
まあブログを覗くと今も元気に池駅あたりでライブを行っているようですよ

そうすると現代におけるインディーズアイドルがファンとの距離を縮めるのには
SNS系ツールなんかが必須であって
自分に手の届かない存在としてのアイドルではなくて
クラスで隣の席にいたような娘がアイドルとして自身を売り出すような
一昔前よりかなり近い距離での活動が行われているのではないかと
そら当然リスクも増えるのではないかと思われる

今度はファンの質ということで考えると
クリエイティブうたのおねえさんを取り巻く連中がそれを端的に表しているような
やっぱり彼等は物凄いヲタク然としていたよね
現実世界ではなかなか女の子と積極的にコミュニケーションは取り難いと

ただ以前であればアイドルはずっと遠いところにいて雲の上にいて
CDを買ってポスターを貼って遠くで見ていることしかできない存在だった
ところがアイドルが乱立したことによって
マイナーなアイドルやら自称アイドル的なものが出てきてくれたおかげで
ずいぶん近くに寄れた気になれるようになったんだね

クリエイティブうたのおねえさんだって別に可愛い顔ではないわね
でも自分に自信がないファンにとっては逆にそれが良いと思うかもしれない
単体AV女優の整った顔より企画ものの若干崩れた顔の方が
親しみ易くて良いというようなことかもしれないね
まあアイドルというものが随分お手軽になった感があるのである

という訳で両者の距離が縮まったところで
両者が持つマインドについて
事件に発展する大きな要素があって

アイドルという言葉の語源は「idol」すなわち「偶像」であるね
アイドルは夢を売る商売なんだ
彼女等の商売はファンに自分の事を熱烈に好きになってもらう事であって
ファンが刺したくなる程彼女の事を好きにさせたとなれば
こら本来アイドルとしては一流な訳ですよ

当然彼女等にも選ぶ権利はあるわね
「お付き合いするなら高顔面スペックでコミュニケーション能力を持った男の人がいいな」と
ところがそんなリア充的な連中はアイドルという幻想にすがる必要はない訳で
そら自身のコミュニティの中で素敵な女性を見つけてお付き合いしますよ
つまり現実世界を上手く泳げる人間は
アイドルというものの存在をあまり必要としない訳だね

アイドルというものが
コミュ障だとかヲタなんて言われて
現実世界で上手くいかない連中の駆け込み寺的存在であるとも思われる訳で
こら社会に溶け込めない連中がすがる
宗教なんかとも同じような構造を持っているのではないか

ということはアイドルめがけてやってくる連中は
現代社会システムには相容れない要素を持った
つまりマジョリティからすれば「歪んだ視点」を持っている場合が多いのではないかというね
うたのおねえさんに群がる彼等をみていると
やはりある種の気持ち悪さを感じてしまったよ申し訳ないが

だもんでアイドル業というものは構造的にそういうファンを集めるような商売であって
ここに自己決定論を利かせるのだとすれば
アイドル側もそれを理解したうえで取り組まないといかんと思うのだが
きっとそれ程の自覚は覚悟はないのだろうな

アイドルになりたいというマインドを持つことも
やはりどこかマジョリティの思考とは違っている可能性があって
そら自己顕示欲であるのか承認欲求なのかそれは知らんが
重いスピーカーを引き摺って電車に乗って
AKBの路上でキレのないダンスを踊って伸びの無い声を聞かせて
ヲタ系ファンの評価を受けて嬉しくなれちゃうなんてのは
一般的社会システムの構成員にはなかなか難しいですよ

ずれたマインドを持つアイドルと
ずれたマインドを持つファンが
そのずれた部分で互いの利益を合致させているということなのかもしれないね

でも結局不安定マインドを持った者同士が
それぞれアイドルとファンの立場をやっている訳だから
明日刺されるのはうたのおねえさんかもしれないし
そうであったとしても
これはあんまり不思議ではないなと思うし

この構造からいえば
至る所に明日刺される要素のあるアイドルと
刺す可能性のあるファンがいる気がしてならないのであるね
ワインと思考は
ワインと思考は
ワインと思考は
寝かすと育つ

ということで改めて考えたい事がある訳だが
居酒屋と思想ということである

Tallさんと昼から飲んだくれるにあたって
選択したのが塚田農場であるのだが
このチェーンはAPカンパニーという会社が経営している
ここは他にも「じとっこ」やら「わが家」やら「四十八漁場」やら
まあ色々なブランドを持っていて
居酒屋チェーンでは成功しているグループということになっている

塚田農場においては宮崎県の養鶏場と直接取引をしており
中間マージンを除く形で
地鶏を安く提供することで有名になった訳だが
自身としては鶏の味そのものにはあまり興味はなくてだね

なにかというと
ここでは社員が1組の客につき数百円分の決済を持たされていて
サプライズ的な取り組みをすることができるのである
で彼等彼女等が一体どういったものを出してくるのか見たくなって
思いついた時に入ってみるということなのである
そんで塚田農場はこれまで5回程度利用していると思うのだが
いつも安心の残念感なのである

彼等のやり口はこうだ
地鶏を食した後の鉄板に米を入れて再加熱してハート形にして提供
そんで「これはサービスです油もおいしいので是非ご飯と一緒に食べてみて下さい」
今回はよく分からん調味料を途中でサービスというのもあったな
それからカードを作るという名目で聞き出した名前を盛り込んで
チョコレートかなんかでメッセージを書いたデザート皿を提供
これらで毎回残念な気持ちになる訳だね
スイカを思い出すといったら理解し易いかもしれない

ある時GMでOBとして後輩に会った時に
彼等が嬉々として話してくれたのは
「僕たちもスイカ企画をやりましたとっても盛り上がりました」てね
実に残念に感じたのである
当然のことながらスイカは手段であって目的ではない訳だ
つまりこちらには「なぜ?」が先にあって
それを達成するための手段が2005年のあの夏において
あの時のGMメンバーにとってはスイカ企画であったというだけの話で
後輩がその行為をなぞる必要は全くない訳だね
「前例があるからそれを踏襲しよう」て
そら公務員に任せておけば宜しいですよそんなもの

これは企画なんだから
GMは自由な空間でなんだってできる環境なのだから
自分たちの世代だからできるもの
自分たちのチームだからできるものを考えればいいじゃないかと
それが彼等の時にも偶然スイカだったとしたらそれは凄い奇跡であるのだが
普通に考えれば無数にある可能性から
スイカにたどり着く確率は数パーセントもないと思うもので
結局大して検討することもなく安易に前例を踏襲しただけなのだろうなと

もっといえば彼等にとってはスイカが「目的」であって
こちらが目的を達成する「手段」として作りあげたスイカスキームに則って
それを無難に運用することが彼等にとっての至上命題であって
いつもの言葉でいえば彼等は立派な歯車予備軍として育成されていった訳である

塚田農場についても同じことで
従業員に与えられた数百円の使い道は自由なはずなんだ
そら実際のところの内情は知らんけれども
会社の意図としてはこれを用いて従業員のクリエティビティを発揮してほしいと
そういうことだろうと思う訳で
そんだらさ
「地鶏の数を何個か増やしてみました」でもいいじゃない
「タルタルソースかけ放題です」とかいって目の前で好きなだけかけるでもいいじゃない
「ドリンクのジョッキを大きくしてみました」でもいいじゃない
「彼女へのお土産にどうぞ」なんて小物を渡す方法もあるだろうね
「殿様座布団を用意しました」なんてこともできるかも
「これは僕専用の呼び出し笛です」なんてブブゼラを渡すこともできるかもしれない
これは使用後そのまま持ち帰ってもらうかゴミ箱かしらんけど
なんの集まりかは知らんけど皆にクラッカーを配って「乾杯!」なんて鳴らしてみるとか
まあこちらが考えろと言われれば数分で数十個は出てきますよそんなもの

当然自分がやりたい事をやるというだけでは
対象不在の自慰ショーであるもので
「今日はどんな集まりなんですか?」「なんでうちを選んでくれたんですか?」なんて
客が欲しているものを会話の中で聞き出したりして
どんな手を打つのが効果的なのかなんて考えてだね
そんなことをしているうちに店員と客の距離も縮まって
店と客という付き合いから店員と客という関係性も生まれる訳で
店員のファンという客ができればこれは会社にとってもありがたい
素晴らしい取り組みになっていく可能性を持っている訳だね

それなのに
それなのになぜどの店舗でもどの店員も
皆同じことを同じようにしかやらないんだと
鉄板で米をこねくりまわして油と混ぜてぎとぎとにして
ハート形にして出す所までまるで同じですよどの店舗でも
これのなにが面白いのだろうね

だってこのとき光は糖質制限をしていて
残り2人は別に米を欲してはいなくて
結局光がTallさんの無茶振りに乗る形で笑いに変えたからその場が成り立った訳で
こら光の手腕が褒められるだけの話だわね
デザート皿にしたってまさに皆が腰を上げる瞬間に届いたもので
これまた光が無理やりやっつけて
メッセージなんか誰も読んじゃいないですよ
そうすると結局自分達がそれをやりたいだけなんじゃないのという
自慰ショーの域を出ないわね

まあ難しい部分もあって
企画というのは「相手の期待を知りそれを越える」という観点であると思うのだが
一度経験してしまうとそれは受け手にとって「普通」のことになってしまうことで
鉄板ギミックだって初めての場合は感動してもらえるかもしれないね
「わーサービスでこんなことをして貰って嬉しい!」なんて
ところが次回はそれが普通になってしまっていて
逆にそれがないと「なんだよ前回はやってくれたのに今回は無しかよ」と
こういう状態に陥いる可能性を孕んでいるということだね

特に居酒屋においての考え方は
一番忙しい時でも提供できるサービスをスタンダードにするということであるから
例えば店が空いている日に来てくれた客に色々サービスをしたとしようか
そんでそこが気に入った客が仲間を連れて再来店したとする
ところがその日は混雑していてそんなサービスが何もできなかった
そうすると客は期待を上げて来ているものでその分失望も大きいわね
「なんだよ前回はあんなに色々してくれたのに二度と来るかこんな店」となる
暇な時にだけしかできないサービスはやってはいけないという考え方である

だからバランスを取りながら取り組むことはなかなか難しいとは思う
でも鉄板で米をこねくりまわすのと最後のメッセージ付きデザートは
どこの店に行っても同じ仕様で同じ仕上がりで
同じものが毎回出てきたのである
とすりゃこれは只のオペレーションで
「こうすることになっているのでやりました」或いは「皆やっているので私もやりました」
それは歯車従業員による歯車的取り組みであるわね
企画マインドからは程遠いですよこんなもの

まあTallさんにいわせれば「期待などするから絶望がある」ということだろうな
それは理解している
いくら自由な裁量を持たされたとしたって
クリエイティビティを持たない歯車が考えられることなんてのは限られているもので
それなら前例を踏襲して
大きな驚きもないが失敗もしないというところに落ち着いたほうが安心できる
彼等彼女等にとっては前例のあるものを前例の通りにやった方がいい訳であって
本当スイカ企画と被るのである

シャンパン王子は過去の来店経験を聞いてきた訳だ
だから自分はまた期待してしまった
こちらは数店舗の利用経験があると回答した
とすれば鉄板油飯ギミックだってメッセージデザートギミックだって味わっているはず
それならシャンパン王子にしか出せないものを提供すれば
それは期待を越えるということになるから
「ここが腕の見せ所だな」と
そう思わんのかなと

まあ客がいなくて空いている店内でさつま揚げを単なるオーダーミスで持ってくる時点で
その店舗の質は従業員の質はお察しといえばお察しではある
ただし自分の生き方として常に期待はする訳で
ここに関してはもうどうにも変えられんと思っている訳で

これは糞が人間になることへの期待だったり
相手が能力を発揮することへの期待だったり
もっと大きく捉えるのなら赤のピルを飲むことへの期待だったり

つまり自身が取り組もうとしていることが
有態にいえば相手の能力開発に携わることであって
相手の良さの発現に力を貸したいということであって
そら何度も書いたように能力そのものを与えることはできないわね
こちらができることは水をやって日に当てて土を変えて花が咲くのをじっと待つだけである
つまり環境を整え気付きを与えることだけであるが
それによって相手が奇麗に花を咲かせることへの期待は無くすことができない訳で

もしこの思いが無くなるとすれば
現在に至るまでの取り組みは意味を無くすだろうし
ひいては自身の存在価値が無くなることになるだろうなという位の思いである

まあ自身はAPカンパニーの社員でもないし教育係でもないし
別に社員教育について何か言えた義理でもない訳であるが
相手がどんな状況にいても
そこで奇麗な花を咲かせることへの期待は持っているし
また持たずにはいられないということである
絞殺

「結婚式で大嫌いなフラッシュモブをされ離婚を決意」…新婦の投稿が話題に
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1884612.html

283: 名無しさん@1周年 2016/06/03(金) 12:16:06.96 ID:oqYzp9BsO
フラッシュモブが好きな人とはこういうタイプ

・Jリーグはよく知らないが日本代表の試合は顔にペイントしてスポーツバーで盛り上がる
・本来どういうお祭りなのかよく知らないがハロウィンで張り切って仮装する
・映画の試写会終わりで取材班に要求されるがまま好意的なコメントをし
「○○サイコー!」と映画を褒め称える

以前にも絞殺した気もするがまあよし

企画を行う時に知恵の足りん奴が陥り易い要素が2つあって
すなわち「対象の不在」と「対象の誤解」であるね
現場では両者が複雑に絡み合っていたりするのだが
その根本原因はひとつだけである

「対象の不在」とはそこに相手の存在がないということだね
自分がやりたいことをやりたいようにやると
これを企画であると考えてしまう
そいつがやりたいようにやって出来上がったものがイチさん並の質であれば
受け手もそれなりに受け入れるかもしれないが
凡人にとってそれはなかなか難しい訳である

「これ面白くね?面白くね?」て
内輪での飲み会で盛り上がったものをそのまま一般人にお出ししたって
傍から見ればそんなものは自慰ショーですわな
凡が凡の頭で考えた凡なことを凡風に発現させたものの結果は大概凡ですよ
そこに気付かないんだ
自分達のコミュニティで受けたものは世間一般も受け入れてくれると考えるんだ
皆が自分と同じ価値観を持っていると考えてしまう可哀想な状態

そら「なぜ?」がなけりゃゴールの姿は自分中心に考えるしかない訳で
それをやった結果「自分が」楽しいと結ぶしかないわね
自慰行為を皆に見せつけるという意味ではオナクラもびっくりである

自分がやることそのものが面白いというようなことであれば
ユーチューバーとしてなのかニコ生主としてなのか知らんが
それはそういった空間で発揮して頂いて
そこに興味のある人間だけ賛同する人間だけ
近寄って来れるようにした方がその他一般の人間にとっては
お互いの為に幸せであるなと

一方で対象の存在を匂わせている場合もある
それなのにそこがうまく機能していない
これがつまり「対象の誤解」である

今回の例を出すまでもなく
生きていく中では至る所に「サプライズ」を発現させられる機会はあるわね
問題はそれを相手がどう感じるかということよ

例えばこのフラッシュモブをYurieに対して行えば割と喜ぶかもしれない
動画を撮って直ぐにインスタにあげてイイね的なものを貰って大興奮かもしれないね
じゃTMちゃんに同じアプローチだったらどうだろうかと
ドン引きで終了となる気がしてならない訳である

つまり企画には対象が必要だとするのならば
その対象がどう思うかというところが重要になってくる訳だから
そこに対して失敗する可能性を除いていかなければならない
可能性の処理が必要になってくる訳だね
この過程は実に俯瞰視点であって
つまり主観のみで進めていくとこれは容易く自慰ショーに転げる可能性があると
だもんで相手の立場に回って
或いは第三者的視点に立って
対象が転びそうな石を丁寧に取っていかないといかん訳である

口先で「場を盛り上げる」とか「誰かを喜ばせる」なんていって
可能性の処理が伴わない試みが実に多い訳である
これは結局自分の欲望を満たしたいということが先立ってしまっていて
或いは自分の価値観でのみ主観でのみ企画を捉えてしまっているということで
やはりそれは自慰ショーの域を出ないわね

これは一見難しいが実は簡単であって
例えば疲労炎で歌を歌うという定番の催しがあるわね
参加者の中には歌が嫌いな人間がいるかもしれない
「可能性の処理」を表面上でしか理解できていないと
「嫌いな人がいるのなら歌わない方が良いのではないか」なんてなる
勿論そうではないわね
ゴールが新郎新婦を喜ばせるということであれば
つまり企画の対象を新郎新婦に置いているのだとすれば
また歌うことによって新郎新婦が喜ぶということが認識できているのであれば
歌を歌うという企画はその目的と手段において妥当であるといえるわね

企画を行うということは相手の事を考えるということであって
対象の好きなもの嫌いなものについて思いを巡らすということであって
彼等彼女等が喜ぶゴールの姿を描いて
そのゴールの為にどんな手が打てるかを考えて取り組む訳だから
そんでその結果相手からの「楽しかったよありがとう」が
自身に跳ね返ってきて「あなたが楽しい私も嬉しい」と
こういう構造であると考える訳である

だから企画には対象が必要であって
企画を終えたときに対象がどうなっているかというゴールの設定が必要であって
そうすると今回のフラッシュモブは目的を達成するために沢山ある手の中の一つであって
それが効果がある場面もあればそうではない場合もあると
だから対象に思いを巡らせてそれを取捨選択することが重要なのであると

もしフラッシュモブへの欲望が先立っているのなら
つまりこれを行うこと自体が目的となっているのなら
それはやはりユーチューブやニコ生で行って
そこに価値を持つ人間だけのコミュニティで評価してもらった方が宜しいと思うね

頑固ラーメン屋があって
「この味が分からん奴は店に来ていただかなくて結構!」となっていると
これは自分自身の信念に基づき自分の考える「旨いラーメン」を提供しているといえるね
ただし評価は他人がするもので
それが繁盛店となるか半年で閉店となるかそれは分からない
まあ自身の価値に基づいて行動してそこに客がついてくるのならいいのではないかと
「対象の不在」があっても成り立つ時もあるし成り立たない時もあるわね
でも自己完結する環境の中での取り組みなのなら
それはどうぞご自由にということで
その思想が皆には受け入れられず店が潰れたってそれは自己責任論の世界である

宴会があって
その中の数人の固まりで下衆の極み乙女会を行っている
内容が下衆杉ちゃってそこに入れない人間も出てくる
でも他にバス話の固まりもあれば子会社話の固まりもある玉入れ話の固まりもあるかも
自分がその価値によってその固まりを選択することができるとすれば
これはそれぞれの固まりにとって幸せな時が流れるわね
「対象の誤解」が存在しても
ある価値からはみ出してしまう人間にとって別の価値も存在していれば
そいつが別にあるいずれかの固まりに入ることができれば企画としては成り立つわね

だからもうただの動物園デートに
雨の予測とか風の予測とかお昼の予測とか動物の予測とか
まあとにかく色々な事を想定してみるのが企画であって
そんでもって傘やら合羽やらお弁当やら動物図鑑やら
沢山のものを準備してみるのが企画であって
そんでそれは「何のため?」って
それはもちろん「彼女の笑顔のためですよ」と
こういう構造であるしこうありたいと考える訳だね
学生になっているというなかなかな状態であった
http://howcollect.jp/article/9331

【学生時代に戻っている夢】
学生時代に戻っている夢は、現状の無力感、運気の停滞を反映します。
この夢は、物事が前に進まない時に見ることが多いと思います。
意外にポピュラーな夢ですが、
学生時代の交友関係はそのまま現在の人間関係を映しています。
また、期待外れや勘違い、人間関係のすれ違いなど、
学生時代の対人関係の再現になるような出来事や状況を暗示することがあります。
社会人になっても学生になっている夢を見るのは未熟さの証になっているので、
堂々巡りを繰り返しやすい状況をあらわしています。

【授業や教室の夢】
制服を着て授業を受けているといった夢は現状の拘束感やストレスを反映します。
教室の移動は慌ただしさの暗示になります。
注意したいのは、「社会人のはずなのにどうして学生生活を送っているの?」
といった戸惑いを夢の中で感じるイメージです。
そんな時は現実生活でミスが重なったり、
誰かに注意されたりすることが増える暗示になります。
また、過去に苦手だった授業の夢を見る場合、
例えばそれが数学の授業の夢なら金銭的な課題の発生を暗示することがあり、
体育の授業であれば健康上の課題の発生を暗示することになります。

やたら

2016年4月23日 企画マインド
やたら
書いたのであるが
ぼちぼち一段落つきそうである
素敵な土曜日の過ごし方であるね

自宅待機していれば勝手に荷物が届く
アマゾンは便利な奴である

企画考察
http://17997.diarynote.jp/201604202133583155/
面白さの面白くないことといったらない訳で

http://alfalfalfa.com/articles/137499.html
という大変不快な話

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